馬術・競馬

法華津寛(馬術)の嫁・子供・孫とその若い頃・現在そして引退は?

1964年の東京五輪にも出場した馬場
馬術の法華津寛さんは現在もバリバリ
の現役。

 

現在も愛馬にまたがって”ジジの星”
として活躍しています。

 

苗字の読み方がわからないって人も
多いんじゃないでしょうか。

 

「ほけつ」と読みます。全国におよそ
210人のほどの法華津さんがいるよう
ですよ。

少ないですね。

 

法華津家は愛媛県に屋敷を持っていた
由緒正しい家系で、高知県・山内一豊
のお隣の県にあり、馬の縁ですかね。

 

今回は”ジジの星”こと法華津寛さんの
結婚したお嫁さんや子供、孫、現在の
活動や引退について深堀していきたい
と思います。

法華津寛(馬術)の嫁は北条時宗の子孫!?

法華津寛さんの嫁で翻訳家の法華津
(北条)元子さんは聖心女子大学英文
科を卒業した才媛で、父親は北条誠
さん。

 

北条誠さんは近代日本文学の頂点に
立つ作家の一人である川端康成に
教えを受け、小説家・劇作家として
活躍。

数々のヒット作を生み出した人物です。

★代表作に昭和22年NHKラジオ放送
で人気を博した「向こう三軒両隣」
人気テレビドラマ「この世の花」など
があります。

 

北条家の家系も素晴らしく、鎌倉時代
に蒙古襲来の国難に立ちむかった執権
北条時宗の子孫なのです。

 

夫の法華津寛さんは馬術競技者として
有名ですが、表の顔は2003年に定年
退職するまでは

外資系製薬会社エフ・オ・ホフマン・
ラ・ロシュ(ジョンソンエンドジョン
ソンの系列会社)社長などを歴任した
実業家です。

 

祖父の法華津孝治さんは南亜公司
(天然ゴム栽培業)社長で、南洋諸島
の調査研究や東南アジア地域の研究・
開発を行っている

”南洋協会”の会長を務めていたことも
あります。

 

また、父の法華津孝太さんは外務省
調査局長、極洋捕鯨(現極洋)社長
・会長、山階鳥類研究所専務理事等、

数々の社長・会長を歴任した人物で、
まさに華麗なる一族なのです。

 


出典

二人は知人の紹介で知り合い、
法華津寛さん29歳、元子さん22歳の
1970年11月16日に結婚。

 

夫婦それぞれ恵まれた才能と華やかな
家系を持つ、結ばれるべくして結ばれ
たお二人のようですね。

 

その4年後の1974年に長女が誕生して
います。

法華津寛プロフィール

【生年月日】
1941年3月28日(78歳)

【出身地】
東京都

【身長】168㎝

【体重】61㎏

【家族】
妻・元子   娘

【出身校】
私立武蔵野高校⇒慶応義塾大学⇒
デューク大学大学院

法華津(北条)元子プロフィール

【生年月日】
1948年1月1日

【出身地】
東京都

【出身校】
聖心女子大学英文科

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法華津寛(馬術)の子供と孫は?


出典

法華津寛さんは12歳の時、サマー
キャンプで馬に乗ったのがきっかけで

極洋捕鯨の社長の父・孝太さんに頼ん
で、特権階級だけが入会を許されてい
た”東京乗馬倶楽部”に加入。

 

乗馬は戦後になっても今の流行語の
上級国民のものだということがわかり
ますね。

 

”好きこそものの上手なれ”の諺通り
法華津寛さんの乗馬技術は上達し、
学生時代は数々の競技会に優勝。

 

1964年23歳で東京オリンピックの
障害飛越の代表に選ばれました。

 

東京オリンピックでは個人40位、
団体12位の成績で自分と日本の力が
世界に通用しないことがよく分かった
のです。

 

日本石油に就職、結婚、その後の会社
経営者の生活で何よりも優先したのは

トップアスリートとしての地位を保ち
続けることでした。

 

その間奥さんの元子さんは26歳で出産。

 

夫と同じ乗馬を趣味とした生活を続けて
いましたが、生き甲斐を求めたのでしょ
うか、38歳の時翻訳の仕事を始め、多く
の著作を残しています。

 

元子さんは父親に連れられて文豪・
川端康成の家に出入りし、実の娘の
ように可愛がられていました。

 

そんな環境が、聖心女子大学英文科
卒業の才能を発揮させたといえます。

 

それぞれの道を歩き始めた法華津夫婦
はお互いを干渉することなく尊敬しあ
い、もうすぐ金婚式を迎えます。

 

ただ法華津夫妻のお子さんやお孫さん
についての記録はありません。

 

公表されているお嬢さん(名前不詳)
は46歳になるはずですが、これほど
華麗なる一族の後継者が不詳なのは
残念なことです(涙)

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法華津寛(馬術)の若い頃は?

法華津寛さんは幼年期の1944年、
太平洋戦争が激化し長野・軽井沢に
家族で疎開しました。

 

父が外交官だった関係で、大本営の
移転計画があった同県松代に近かっ
たためです。

 

木に登って木の実をたくさん食べたり
タンポポの葉っぱを調理して食べた
記憶はあるようです。

 

経済的に恵まれた環境で小学校~大学
(慶応義塾)に進み、1964年の東京
オリンピックに出場した法華津選手。

 

最終日10月24日の障害飛越の会場は
国立競技場でした。

 

あるインタビューで

「今でも馬術はなかなか観客が集まらないが、国立に入場してみるとお客さんでいっぱいだった。すごいなと。非常に印象深い。東京開催でなければオリンピックなど縁はなかった。ヨーロッパに船で40日ほどかけて馬を輸送していた時代。そんなお金もなかった」

と述べています。

 

東京開催が23歳の法華津青年の
運命を変えたのです。


出典

法華津寛さんは東京オリンピック
出場後日本石油に入社しましたが、

退社しデューク大学大学院に留学し
経済学専攻修士課程を修了。

 

外資系製薬会社に入社そして1981年
に同製薬会社の傘下のオーソ・クリ
ニカルパに派遣され、
その後45歳の若さで社長に就任。

 

その頃はアスリートというより実業家
の顔でしたが、その裏では毎朝5時に
起床し乗馬の練習後出社する二つの
顔の日々でした。

 

若いとはいえ30代半ばになると、
動体視力などの衰えを感じていました
が、乗馬をしていた妻の元子さんに
勧められ、障害から馬場馬術へ転向。

 

しかし会社での仕事など多忙を極め、
1984年ロサンゼルスオリンピック
まで、五輪挑戦はできなかったの
です。

 

そのロスでもその名の通り
法華津(補欠)。

 

1988年のソウルオリンピックでは
馬が検疫をパスできず、出場できま
せんでした。

 

その時、50歳を過ぎたころに会社を
リタイアしたら、本場のヨーロッパ
に行って五輪を目指そうと心に決めた
そうです。

 

法華津寛さんにとっては乗馬も事業も
青春を賭けた両輪なのでしょうね!!

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法華津寛(馬術)の現在、そして引退は?

法華津寛さんは社長業を62歳まで
務め、2003年に定年を迎えると、

馬術の技術を向上させ五輪再出場の
ために単身でドイツの古都アーヘンへ。

 

現在も日本とドイツを行き来する生活
を送っていますが、帰国を考えたこと
は何回もあったようです。

 

夢をかなえるためとはいえ日本には
年間30日ほどしか滞在しないのです
から。

 

こんな寛さんの状態に、寂しくないの
かと聞かれた妻の元子さんは
「言っても聞かないから」とのことで。

 

法華津寛さんは名パートナー、愛馬
ウィスパーとともに、2008年67歳で
北京オリンピックに出場。

 

44年ぶりの出場に加え、大会最年長
記録で参加し話題になりました。

 

44年ぶりの北京は馬場馬術で個人
34位、団体9位の結果に終わりまし
た。

 

この世界それほど甘くはなかったの
ですね。

 

2012年のロンドンオリンピックでは、
自らの記録を更新してウィスパーと
見事に連続出場。

 

ただその直後に悲劇が待ち構えていま
した。

 

2013年愛馬ウイスパーが左脚のひずめ
を痛めたのです。

 

馬が足を痛めることは致命傷、寛さん
は安楽死させることを選びました。

ウイスパーの死後新しいパートナー
として18歳のブリオーニと14歳の
ザズーを選び調教と練習を開始しまし
たが、2016年リオデジャネイロオリ
ンピックには間に合いませんでした。

 

「じじの星になる」がモットーの法華津
選手は、今体重は61.5㎏で前回の東京
オリンピックとほとんど変わらず。

 

お酒も変わらず飲んでいますが、
75歳を過ぎてからはさすがに朝起きて
「やるぞ!」という気が沸かない日も
あり左足も衰えを感じるようになった
ようです。

 

「この年で、ある程度国際大会で活躍
できていることがじいさんたちの励ま
しになるなら、こんなに嬉しいことは
ない」

とオリンピックへの意気込みを語って
いますが、東京オリンピック後も競技
は続けないのかと聞かれると

「妻に怒られる」と笑っていたそう
です。

 

スーパーじいさん・法華津寛さんは
東京オリンピックに出ても、出られ
なくても最後、本当に辞めると宣言。

 

引退したらスマホもパソコンも使え
ないのでパソコン教室にでも通い、

寂しくさせていた奥さんとのんびり
暮らしたいのでしょう。

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さいごに

「法華津」という名字は、戦国時代
に活躍した海賊に由来するのだとか。

 

法華津選手がその直系の子孫なのか
は不明ですが、縁はあるようです。

 

さらに父は外務省の調査局長で、
鳥類研究所の専務理事を歴任。

 

奥様の元子さんは執権・北条時宗の
子孫という、まさに華麗なる一族
です。

 

乗馬競技のオリンピック代表は
法華津寛さん、武田麗子さん
黒木茜さん他そのほどんどが経済的
に恵まれた人たちです。

 

日本の乗馬人口は近年増えていると
言われます。

 

確かに乗馬クラブや外乗をできる施設
も増えています。

 

しかし絶対数は少ないのです。

 

確かな数字がないので明確な乗馬人口
は分かりませんが、日本馬術連盟の
会員は6000人程度。

総数でも3万人程度だといわれてい
ます。

 

乗馬人口が少ない理由は、やはり経費が
高いからでしょう。

 

乗馬でも外乗を共にすれば「みんな」
で乗れますが、自由にとはいきません。

 

経験の多い人は初心者向けのコースで
はもの足りないし、初心者が上級者向
きのコースに参加するのは無理。

 

所要時間も大きく異なるので、
「一緒に」が難しいのです。

 

馬術競技は上を目指せば目指すほど
お金がかかりますし、そこまで洗練
した騎乗技術を望む人がどれだけいる
のか、という問題もあります。

 

乗馬クラブの会員になるには、多くの
場合10万円程度の入会金が必要です。

 

これが最大の障害で、たとえクラブに
不満を感じても簡単に退会できないの
です。

 

これでは敷居を高く感じ、躊躇して
しまいます。

 

乗馬クラブによっては、会員にならず
に騎乗する「ビジター」というサービ
スもありますが、高めの料金設定にな
っています。

 

リーズナブルに乗るならJRAが開催して
いる乗馬教室がおすすめかも。

 

初心者向けの一年コースで、馬房
仕事から騎乗の基礎までをきちんと
学ぶことができます。

 

ただ募集期間が限られている上に、
開催日も平日の水曜~金曜と、

一般的な勤め人には無理という欠点
があります。

 

乗馬競技の底辺を広げ、世界に対抗
できる人材を作るには入会金不要で、

指導も受けられる乗馬施設を各地に
作ることが急務です。

 

「じじの星」法華津寛さんは中高年
にとっては”希望の星”ですが、

上級国民のスポーツと言われないよう
に大衆化を期待しています!!!

ABOUT ME
ちゃいむ
超が付くほど運動音痴!!なのに体を動かすことは大好き!アスリートにめっちゃ憧れている、ないものねだりの元バドミントン部補欠女子。大好きなスポーツ選手やレジェンド、これから活躍してほしいなぁ~というアスリートの卵etcをもっともっと知りたくてChime@Naviを始めました。