野球

衣笠祥雄の生い立ちと家族、若い頃と骨折のエピソードとは?

広島は原爆投下で太平洋戦争を終結
させるきっかけになった町です。

 

荒廃した町は市民の努力で見事に
復興を成し遂げたのです。

 

復興の中心になったのが重工業と
自動車産業でした。

 

野球好きの市民の要望により、
戦後間もない1949年12月15日に
広島カープが創設されました。


出典

市民と自動車メーカーの東洋工業
(マツダ)が資金を出資し合う
市民球団が誕生したのです。

 

自前の球場がなく広島総合グランド
野球場(県営球場)を借りてスタート。

 

1957年に市民球場が完成し本格的に
セントラルリーグに仲間入りしました。

 

しかし資金不足の貧乏球団は良い
選手が獲得できず、
球団創設19年間でAクラスは1回
という成績で、存続が危ぶまれていました。

 

そんな中、1965年に入団した選手が
衣笠祥雄さん、
1968年には山本浩二さん、この二人が
恐怖のYK砲として活躍、

万年Bクラスをトップチームに飛躍
させたのです。

衣笠祥雄(きぬがささちお)の生い立ちと若い頃のど派手生活!?


出典

衣笠祥雄プロフィール

★生年月日
1947年1月18日

★出身地
京都市東山区馬町

★身長175cm

★体重73kg

★出身校
平安高校(現 龍谷大平安高校)

★ご逝去
2018年4月23日(71歳)

生い立ち

衣笠祥雄さんは戦後間もない1947年に、
アフリカ系アメリカ人の父親と日本人の
母親の間に生まれました。

 

いわゆる進駐軍の男性と日本人女性、
当時多く見られた結びつきです。

 

やがて帰国する父と母は離婚、やむなく
子供は京都の祖父に引き取られ育てられ
ました。

 

しばらくして母が再婚、親子3人の
4畳一間の貧しい暮らしが始まり、

幼い祥雄さんは新聞配達をして家計を
助けました。

 

戦後よく見られた貧困家庭のモデルの
ような話です。

 

中学生になると父譲りの頑健な体に
成長しましたが、
やりたかった柔道部がなかったため
野球部に入部
し力を発揮。

 

野球の名門平安高校に入学すると
その強肩を買われてすぐに正捕手に
なりました。

 

平安時代は1964年、春と夏の甲子園に
出場するとベスト8に進出し強肩強打
のキャッチャーとして全国的に売り出したのです。

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若い頃のど派手生活

1965年、衣笠祥雄さんは
広島カープに入団、背番号は28。

 

入団直後に肩を故障し捕手から
内野手に、プロの世界は想像以上に
厳しく即戦力にはなれませんでした。

 

広島は貧乏球団で選手も地味な生活
をしていましたが、
少年時代からどん底人生を送ってきた
衣笠祥雄さんは反発を感じたので
しょうか、

契約金をはたいてアメリカ車
”フォードギャラクシー”を購入

乗り回すど派手生活。

 

やくざ風のスーツファッションに
パンチパーマ姿で遊びまわる日々。

 

これでは野球が上手くなるわけが
ないですね。

 

近くの岩国に米軍の前線基地があり、
米兵目当ての飲み屋やゴーゴー
クラブが大賑い。

衣笠祥雄さんも毎日のように
アメ車で遊びに。

 

ある日飲み屋に遊びに行くと、
親しくしていた米兵に

「明日ベトナム(戦争)に
行くんだ」

と聞かされ大ショック!!

 

好きな野球をしながら遊びまわる
自分を恥じたのです。

 

その日を境に衣笠選手の鉄人伝説
始まるのです!!!

鉄人・衣笠祥雄は骨折して伝説を作った

【骨折ーー鉄人伝説】

あの日以来練習に明け暮れた
衣笠祥雄さんは1968年に一塁手
としてレギュラーの座を獲得します。

 

そしてその年法政大学で強打で
鳴らした山本浩二さんが入団し、

有名な赤ヘル旋風伝説の幕が開いた
のです。

 

弱小球団の広島カープは監督に
古葉竹識さんを迎え、
球団カラーの赤を帽子の色に使い、

山本&衣笠選手(YK砲)を中心に
「赤ヘル打線」でペナントレースを
制覇し、1970年代の黄金時代を
迎えるのです。

 

父親譲りの頑健な肉体と強い意志は
休まない男、「鉄人」を作り上げました。

 

アスリートで鉄人の称号を付けられ
たのは、日本人ではハンマー投げの
室伏重信、広治さん親子と野球の
衣笠祥雄さんと後輩の金本知憲さん
のみです。

 

衣笠祥雄さんは野菜嫌いの極端な
偏食家で「野菜は牛が食うとる」と
食事は焼き肉とコーラがもっぱら。

 

これでよく不滅の記録が作れたものです。

 

多少の負傷は日常茶飯事で、
連続出場は1970年に始まり、

1987年6月に元ヤンキースの
ルーゲーリック選手が持つ不滅の記録
2131試合を破り、

野球選手としては王貞治さんに次ぐ
二人目の”国民栄誉賞”を授与されます。

 

しかし同年10月22日に2215試合で
その記録にピリオドを打ちました。

衣笠祥雄さんは闘志の人、
逃げることをなによりも嫌い、

選手生活の間に161個もの死球を
受けました。

 

その中でも連続出場を危うくする
出来事が起こり、それが新たな
衣笠伝説を作ったのです。

 

1979年8月1日の対巨人戦、投手は
新鋭の西本聖さん、持ち球はシュート。

 

インサイドを突いた球は衣笠選手の
左肩を強打。

 

検査結果は左肩甲骨骨折で全治2週間
の診断でした。

 

悩んだ西本投手がその夜衣笠祥雄さん
にお詫びの電話を入れると

「気にするなよ」逆に慰められたよう
です。

 

これで連続記録は終わりと誰もが
思いましたが、
翌日の巨人戦に代打で出場。

 

当時の古葉竹識監督の配慮だったの
ですが、投手は豪速球の江川卓さん。

 

豪快に3球三振。

その思いは
「一球目はファンのため、二球目は
自分のため、三球目は西本君のため」

泣かせますね、この瞬間
”フルスイング”の衣笠伝説が生まれ
たのです。

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【江夏の21球ーー思いやり伝説】


出典

衣笠祥雄さんが死球で骨折した1979年、
広島カープは山本・衣笠のYK砲の
活躍でリーグ優勝し、

パシフィックの覇者・近鉄バファローズ
と日本一を賭けて日本シリーズで対戦。

 

3勝3敗のタイで迎えた最終7戦目、
広島が1点リードのままで最終回。

 

抑えのエース江夏豊投手が1死満塁の
大ピンチに、広島ベンチはブルペンに
次の投手の練習を指示したのです。

それを見てプライドを傷つけられた
江夏投手が激高。

 

その時3塁を守っていた衣笠選手が
江夏投手のそばに駆け寄り

「俺もお前と同じ気持ちだ、
ブルペンやベンチのことは
気にするな。
辞めるなら一緒に辞めてやる」

落ち着きを取り戻した江夏投手は
近鉄の石渡茂選手のスクイズを外し、

有名な「江夏の21球」で日本一の
栄冠を手にしたのです。

 

江夏の21球は後に山際淳司さんの
本で伝説になりましたが、

その時の衣笠さんの友情もひそかに
語り伝えられました。

 

その後衣笠祥雄さんが監督になれ
なかったのはその時の球団批判が
原因かも・・・。

衣笠祥雄の家族は?

衣笠祥雄さんは幸せとは言えない
少年時代を過ごしましたが、

広島カープに入団後、大金を手に入れて
からのど派手な生活ぶりはその反動
だったのでしょう。

 

ただ友人の米兵がベトナムに渡ってから
の生活は、練習一途の生活ぶりに。

 

そのため浮いたうわさ話も聞かれ
なくなり、
結婚も、その後の家庭生活も公には
なっていません。

 

ただ衣笠祥雄さんはいつも

「でかい家を買って、綺麗な女と
結婚する」

と言っていたそうです。

 

調べると、奥様は正子さんといい、
夫婦と一男の3人の家族構成
です。

 

結婚後、正子夫人は夫の極端な
偏食ぶりを知り、それを直すために
有名な料理学校に通い、

美味しい食事を出す努力をされた
そうです。

偏食は治ったのですかね?

 

息子さんは1977年4月に生まれ、
名前は友章さん。


出典

俳優志望で脇役ながらテレビにも
何回か出演したことがあったよう
ですが、

結局無名のまま廃業して現在は
石川県にある加賀電子株式会社の
広報室
に勤務しています。

 

娘さん(名前は梨代さん)もいる
という情報で調べてみましたが、

テレビ新広島の美人アナウンサーに
衣笠梨代さんという女性がおり、

背番号3のユニホーム姿でカープの
応援番組に出演して、

視聴者に娘さんだと錯覚されたよう
で一種の有名税ですね(笑)

 

2018年4月23日の朝、江夏豊さんの
自宅に一本の電話、

「夫が昨夜亡くなりました」

盟友・衣笠祥雄さんの愛妻の
正子さんの声でした。

享年・71歳――

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さいごに

米兵と母の結婚、離婚、母と別居、
母の再婚、生活苦、新聞配達、
野球部に入部、甲子園で活躍、

プロ入り、荒れた生活、改心、
猛練習、中心選手に成長、日本一に、

連続出場記録、国民栄誉賞、引退、
野球解説で活躍、そして急逝。

 

心優しい鉄人・衣笠祥雄さんの
一生を箇条書きにするとざっと
このようなものです。

 

日本人口の減少は野球人口を急速に
低下させています。

 

プレーヤーは減りながら高校野球も
プロ野球も観る人は増加しています。

 

特に広島カープはカープ女子に
支えられ、3年連続リーグ制覇し
第2の黄金時代といえます。

 

それもこのチームの”金はないが育て
上手”
の体質があってのことです。

 

その土台作りをしたのが、黙々と
チームに貢献した衣笠祥雄さんや
山本浩二さんです。


出典

YK砲の炸裂
といいましたが、
常に中心の4番打者は山本選手であり、

その前後を衣笠選手が固めていました。

 

どちらかと言えば地味な役割の
衣笠祥雄さんに国民栄誉賞が授与され、
花形の山本浩二さんは監督に。

 

人生の機微ですね。

 

衣笠祥雄さん、安らかにお眠りください!

ABOUT ME
ちゃいむ
超が付くほど運動音痴!!なのに体を動かすことは大好き!アスリートにめっちゃ憧れている、ないものねだりの元バドミントン部補欠女子。大好きなスポーツ選手やレジェンド、これから活躍してほしいなぁ~というアスリートの卵etcをもっともっと知りたくてChime@Naviを始めました。